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明治二十七年発刊の風俗画報第七十二号によると、吉田駅の織清(丸よのルーツ)とか言へる割烹店が、江戸より鰻屋の職人をかゝへ、諸方より大なる鰻を買こみ、焼方・醤油の調整ことごとく江戸風に改め、價を廉にして売出せしに、殊の外評判よく、他方の人より其地の者が之を食はざるを恥と思ふほどなりし、其看板に何か異なる文字を書して衆を驚さんと思ひ、其主人は本ト茶道を深く好ければ、其友人(渡辺崋山の息子の渡辺小華のこと)の案にて「頗(すこぶる)別品」と三文字を書して鰻とも何とも書せず。
されど其門口へ至れば鰻屋なる事は見ても嗅でもわかる事ゆへ、其名の奇なるを喜んで行客が皆立ち寄りて食へり。
然るに廉にして美味なれば「頗(すこぶる)別品」の名、大に東西に傅播し、且つ他に類なき美味なるを以て別品と言ひしが、遂には美婦人の事まで「すこぶる別品」と呼ぶやうになり、名古屋辺にては単に別品と稱するに至れり。
其名は京・東京に流傅し「今日にては別品と言へば鰻とは思はず、只美婦人の一名となるに至れり。」と報じられております。 |
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